PROFILE


志賀信夫 Shiga Nobuo
「日記」から 2003.03.22

「室伏鴻舞踏公演」アスベスト館

 土方巽による舞踏のメッカ、アスベスト館が閉館になる話は朝日新聞などでも報道されているが、3月末まで、閉館公演として、多くの舞踏家などが集まっている。

 室伏は3日間ここで公演をしているが、初日は単独で、次は音楽家のYAS/KAZと、この日は土方夫人、元藤さんと踊った。室伏は自らの身体を痛めつけ、身体の緊張感と呼吸でインパクトのある舞台を作る。時折緊張から緩み、独り言のように語り出すのも、コントラストとして面白い。今回もこのように踊りながら、後半元藤さんとコラボレーションとして、帽子を持った椅子に座った踊り、そして立ち上がっての絡みなどを大胆にこなした。

 元藤さんはモダンダンスの素養が大きく、舞踏へと移行する架け橋そのもののような踊りだが、これに「舞踏」そのもの、肉体そのものの室伏か関わるコントラストが面白かった。

 背後に吊された3つの銅板も、時に凶器の面持ちを出し、これに立ち向かう室伏の戯れ、元藤さんの挑戦も興味深いものだった。


木村覚 Kimura Satoru
「日記」から

 □0321(Fri)

室伏鴻《アスベストファイナル公演 即興三夜》の第二夜を見た。

舞台上に打楽器類が所狭しと並べられている。今日はYAS-KAZとの共演。今日は真鍮板が二枚。

後半の後半、YAS-KAZグ ループのオンステージになってしまうまでの時間は、室伏がどう土方にひかれ、巻き込まれ、距離をとりながらも決して無視することが出来ない存在であるのか を語る、一種の「ドキュメンタリー」のようだった。途中、真鍮板に正座して話すところなんて、いつもの室伏流「ボヤキ」しゃべりとは違う、本当に「ただ しゃべる」みたいになっていた。「真鍮板は粉だ」「《肉体の叛乱》の真鍮板が光るのをみて、舞踏を志した」「土方は真鍮板にこだわった、そのわけは戦後の バラックの世界のなかで、真鍮板の輝きに魅了されたから、、、」「真鍮板はimitation gold」 「《肉体の叛乱》は真鍮板に模造男根をつけた土方が絡んだ」正確ではないけれど、室伏はこのような言葉をしばらくぽつぽつ語りつづけた。実際に《肉体の叛 乱》で使用したという真鍮板を揺すり、蹴り飛ばし、持ち上げ旋回し、また板の下になって押しつぶされながら、室伏にとって土方とはこのメタリックに光る、 時にこちらを見返す鏡のようにもなり、またさらに乱反射する真鍮板のことなのだと痛感する。室伏の体に必ずと言ってよいほど塗られる銀色の粉は、「メタリックの土方」に対する反作用なのだと見ることが出来るのかも知れない。彼岸の日、男が男に話しかける。その時間に、YAS-KAZのドラムは甘い感傷を挟み込む隙を与えずクールにあおり立てた。

□0320(Thu)−2

室伏鴻《アスベストファイナル公演 即興三夜》(@目黒、アスベスト館)の第一夜を見てきた。

室伏による土方=アスベスト館へのオマージュ、舞台中央に真鍮版が横たわる。顔に白いレースを巻き付けてスーツ姿に帽子の室伏があらわれる。真鍮版の周りをめぐると端のスツールに腰を下ろす。不意に強烈な痙攣が腕に脚に腰に起こり、震動する線に見る側の眼が震える。フツー強張れば、硬くなったからだはただ一方向に固まってしまう。それが室伏の場合、凝集ではなく拡散の方向にからだが向かう。腕が鎌のような形に手首を強張らせている間に、脚は脚で勝手にやや柔 らかい動きで斜めに伸びる。同時に首が傾ぐ、もう一方の腕も何かが乗り移ったように別の意識からひとり暴走する。ダンスがスリルをもつのは、例えばこんな時だ。バリのレゴンダンスで、少女の五体がバラバラの複数の意識にコントロールされているように見える時、感じるゾクッとするスリル。しかし室伏にかかると、レゴンがもつ「美」のような防護壁さえ取り外されてしまう。その自由がさらに危険と暴力を解放する、そんな予感が期待を孕む。

ただし、今夜の室伏、後半にかけてこの自由を振り回すには至らなかった、というべきかもしれない。真鍮版、これは明らかに《土方巽と日本人−−肉体の叛乱》 へのオマージュだ。途中真鍮版を担いで「危ない」と思わせるほどぐるぐる回転する姿は、72年に《四季のための二十七晩》でひとつの形に結実する「後期 土方舞踏」とは違う、大胆で男性的な60年代の、つまり「前期の土方舞踏」を彷彿させた。けれど、どこか考えあぐねている。オマージュというものの受け身的性格がそうさせるのだろうか。室伏にとっても、「土方」という像は巨大すぎるのか。横たわる真鍮版の下に手を突っ込んで、さらに角を口にくわえたまま背 中をぐぐっと丸めて真鍮をたわませた瞬間は凄かった。くわえた口に広がっているかも知れない真鍮の鈍い味がこちらの口にも転移する。横の壁にバツーンと板 を叩きつけた時も空間の大胆な暴力に圧倒された。こんないい瞬間もあったのだが、、、

それにしても観客が少ないのには驚いた。ブトーを志す若手が日本にいったい何人いるのか分からないが、一番見るべき舞踏手をなぜ見に来ないのだろうか。宣伝の少なさもあるのかも知れないが、アスベスト館という場所にもはや何らの求心力もないと言うこともあるのかも知れない。ともかく、この春あと二回も素(即興)の室伏を見ることが出来る、この喜びを享受せねば、皆々様!

いわゆる「戦争」がはじまった。昼にテレビをつけると地対空放射の映像。国連の無力。しばらく脱力。カントの、理念に基づく「定言命法」と個別的実際的な「判断」との距離を思う。判断論が問われているような気がする。