土方巽(1947- 1986) 1977年7月・背火『常闇形ひながた』公演のパン フレットより また夏ですね。この暑い夏がが来れば、あなたの踊
りを思い出すという具合にこれからも進行するといいと思います。ところで
去年の五太子の公演であ
なたが踊られた木乃伊ですがね、あの踊りについておおかたの人は、あまり触れたがらないですね。何か異様なもの、異形なも
のという、そういうことで片付けているようですが、私はそうは思わないん
です。あの踊りを見たと
きには、あらたな仏骨をまのあたりにしたという感じを抱きました。その異様な迫力というものは、魔性な情景の実像を把握し
ている。さらに異様な、ま
あ私たちの顔前で転げまわったと、そういうあらたな木乃伊の発見、そういうふうに私の網膜に映ったわけです。だいたい舞踏
するもの、また自分のか
らだを舞踏場として揺りいて往くというふうな行為のなかにですね、だいたい人の如きものになされてしまって、その為にぐら
ぐら揺らいだ口元だとか、
擦り切れた形なんかをもたせられてしまうわけです。挙げ句の果てにその行為を売りに歩くことさえ覚えてしまう。そういう
ふうなものを根底から覆
すような新しい舞踏の、まあ発見、古い言葉でいえば、原点というようなものを確かにこの眼で確認したと思います。だいたい
あの木乃伊だって幽霊に
抱かれた乳呑児についての考察を進めていけば、だいたいあの木乃伊の乳呑児は年の頃七才ばかりに私には見えた。これは私が
ただそこに転ばされて、眺
められることの感動を味わった二十年前の舞踏の原点と非常に近いんじゃないかと、そういうふうに感じたわけです。ただそこ
におかれて在ることの。と
ころがあなたの木乃伊は更にこう、発展したものだ、そう思います。 糊口をしのぐようなこういう刑苦にみちたようなダ
ラダラした暮し方にはやはり鋭い爪でひっ掻きたくなるような心情が必要だ
し、それはいつの時代
でも人を打つものが含まれているのではないでしょう
か。だがもんだいは、そ
こにその踊りを見た人にただちに悟られるという、そういう感化力のもんだいだと思います。まあ年齢が長けてしまって俊速の
才に欠けるところがあり
ましてね。あなたの木乃伊には、そのいろんな哭霊が合掌の形をとっておりましたよ。それはその観客のなかに手を合わせてい
た老人も、四・五名、こういう状態というものは、私の経験では確かに異様
なものではあるが、その
異形さの中に含まれている、まあ邪気のない幼さというか、他奇のない幼さというか、そういうもののなかに、ついぞまあ試み
られなかった舞踏の木乃
伊というものがひそんでいて、のたうったり転がったり、ふきあげてくるようなひとつの形相がありましてね、そこに私は一
瞬、あやふい艶っぽさを見い出すことができた。ここらへんに大きなもんだい
があったんじゃないかと
私は、今でもそう考えているわけですよ。だいたい私達のからだにしたって、あなたの宇宙塵を浴びた砂鉄みたいな、極限まで
踊りを追い込んでいくと
いう、解消していくエネルギーだって、この暗いからだを探していけば、饅頭がからだの中にどこか隠れているんじゃないか、
とか、この炎天下をまじめに歩けば至る所に死んだ顔がいききとして生きか
えっているんじゃないか、だいいちそこらへんの曲がっている道が死んだ顔
じゃないか。まあ私なん
かはこういう暑い陽に炙られますと、なんとなくぼぉーっと涙が出てきて犬の年齢など考える馬鹿くさい所におちてしまいまし
たが、どんなとこだって
踏みこんでいけば、死なんていうよりもっと暗い水なり、なんなりがたっぷりたまっているわけで、それがあなたの踊った七才
の木乃伊の表情の中に私は確かにそのひとつの舞踏の地下水を見た。焦げる
肉片をぶらさげた仏骨を視た。かすかな未知の記憶をつかんでいた。むしろ
あの焼かれる渦中に炎の妹も介在していた。こういうものがいっしょくたに
なって合掌の形を生じせしめたのではないか。それは、はなはだ尊いものな
のでして、今流行の肉体
論などではとても把握できないもんだと、そう思います。まあ舞踏のいろんな探究のしかたがあることはもちろんでしょうが、
一度からだをバラバラにしてしまいたい、まあ、太陽を乗せた馬車があるな
らその馬車引きになって
炎天下を歩きたいんだとか、そこらへんの道路に転がっている石を拾って乳を、石から乳しぼる、そういうふうな始源の記憶と
いいますかねえ、そうい
うものに舞踏は誘われていっているわけなんですね。そう思いますが。ええ、あなたの舞踏の中にもうひとつの苛烈な無為、為
さない行為という側面も私は見たわけですね。それを人間という薄明かりを
通して眺めたり、無の中に自分が入って、焼かれることを願ったり、これを
夏の暑さを着てガマに変
貌したり、空耳をもってみたり、そして私達の思考というのは、だんだんおれてたたまれて、引出しに入れられて、樟脳をかけ
られて、そしておしまいになってしまうという所があるんですが、そういう
ふうな所にだって凶暴なやさしさが、まあより添っているわけなんでね。あ
なたが火炎につつまれて私達の顔前で転げ回った最中に、私はその裏側に
股って、真黒い筒を落下していたわけですよ。そうしてああいう乳呑児の木乃
伊、それがそのまま夏を背負って、種が黒こげになって、真黒いように堂々
と落ちる滝を連想させる。そういう所からね、眼をころっと転がすとなんか
そこらへんの、その固まっ
た思考でも、人間でも、なんでもいいんですが、火薬がつまった怒りっていうか、そういうふうなものさえ連想する。ちょっ
と火放つと瞬時にでも爆
発するんじゃないかと、それをそこらへんに咲いている瓜の花が、こう、浸ったりしてそよいでいる。もうこたえられないよう
な所にですね、木乃伊の舞踏はあったわけなんです。 どうも舞踏の自殺行というふうなものが新しい芽を
ふかない。そこらへんの植物だって盛んに自殺しながら新しい芽をふいてい
るのに、どうも舞踏が危険な、危険というか、安易な所に生い先を狂うよう
な所へ持って行っている。だいいち人間で終わるなどというような、したた
かな覚悟のものも見当たらない。まあこういうことをべらべらしゃべってい
ますと際限がないわけで
すが、今回の舞台を見せていただきまして、前回の踊り、私の少年時と重
ねてみたりして、本当にあの木乃伊には私のこうだら
けた肉も荒縄で縛られるような一瞬を見る事ができたのでどうか、あれを舞
踏の原点、竈としてやっ
ていただきたいと思います。あなたの創造された舞踏と私が、今、頭の中で炎天下を日傘が歩いている、それを怪獣がうしろか
ら守って歩いているような、そのくせ、泥鰌があぶくからそれをうかがって
いるような、そういうものと一緒に重ねてみてですね、ええ、誰も踏み込ま
なかった窒息状態に入っていきたいものだと思っているわけです。
一九七七・七・十一 |