PROFILE
| 読売新聞夕刊 2006年6月27日 |
| 室伏鴻 『quick silver』/祐成秀樹 |
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< 水銀の魔力 肉体に宿し > |
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作品名は水銀のこと。かつては魔力を持つ物質として恐れられたが、今では数ある金属元素の一つだ。こうした文明の進歩の中、舞踊の多くも神秘性を喪失し、 無害な娯楽に変質した。だが、ベテラン舞踏家・室伏鴻=写真=は体を張って時流に逆らう。新作ソロでは銀色に塗った裸身で肉体の底知れぬエネルギーを主張した。 まずは暗闇から黒い帽子とコート姿の室伏が浮かび上がる。低くうめいて壁に身体をこすり付け、柱にツメを立てる。体内にみなぎる力が沸点に近付いているようだ。やがて、室伏は突然体をひねって跳躍し、衣服を脱ぐ。むき出しになった鈍く輝く体は人間のものではない。危険な水銀そのものに化身していた。 空間内で唯一、形を持つのは片隅に盛られた塩だけだ。室伏は塩の山を凝視し、床に伏せた肉体をくねらせる。以後も一つの形態に固まることを忌避するように肉体を刻一刻と変容させた。あたかも水銀の粒が表面を波立たせて転がるように。 ある時は客席に背中をさらす。よく見ると背筋全体がわなわなと震えている。おそらくは筋肉の繊維の一本一本に意識を集中しているのだろう。そして緩慢に上体を立てると、即座に頭部を床に落とす。ゴツンと響く音が、衝撃に耐える肉体の強さを感じさせた。 終盤、室伏は塩の山と戯れる。だが、手や頭をこすりつけるうちに整った形状はあっさり失われた。すると室伏は狂ったように全身を床に打ち付けては何度も起き上がる。ばたーんと骨と肉がきしむ音が耳を刺し、世界の調和が崩壊したような戦りつを感じた。 上演時間は約60分。音楽も流さず、極限まで突き詰めた肉体のすごみだけで想像力を刺激した。にじませて現れた室伏に誰もが心からの拍手を送ったに違いない。 −9日、麻布die pratze。 |
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「鉛色の閃光が走る」
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| 『DANZA』 2006.8-9月号 石井達朗 Ishii Tatsuro |
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舞踏は、われわれの想像を遥かに超えて、海外の舞踊界で強い関心をもたれている。北アメリカ・南アメリカ、西ヨーロッパ・東ヨーロッパ、そしてロシア、フィ ンランド、イスラエル、インドネシア、韓国などの都市で、舞踏公演や舞踏フェスティバルが行われ、舞踏を志す者が日本を訪れる。去年は韓国の国立劇場で大掛かりな舞踏フェスティバルが開催された。Butohは今や国際語なのだ。ただし、土方巽という一人の天才を創始者とする舞踏の歴史が四十数年経った現在、真に強度を感じさせる公演は少ない。表面的な技術やスタイルが先行してしまいがちであるからだ。そんな状況の中で、室伏鴻は心身のすべてをかけて舞踏に正面から向き合っている。こういう舞踏家は希少である。 黒い帽子に黒いコートで現われた室伏は、手の指の先にまでほとばしるようなテンションを漲らせる。次に暗転からフェイドインした時、鈍い光を発する裸体が 薄明かりに横たわり、瀕死の虫ケラのように床を転げまわる。終盤は大音響のノイズ音のなか、アルミ板の上の砂を散らし、激しく倒れる動きを執拗に繰り返す。モノと化した鉛色の身体が、閃光のような衝撃を発し続けた。 『quick silver』は、土方が撒いた種を室伏なりのやり方でいかに成熟させているのかを、しっかりと刻印した感じだ。舞踏とは、西洋の舞踊美学が眼をつむってきたものの中に、ひたすら下降することである。終わりのない見事な下降を続ける室伏を、これからも見届けたい。 (室伏鴻ソロ『quick silver』 - 2006年6月9日 / 麻布 die pratze) |
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| 武藤大祐 Mutou Daisuke |
| 2006-06-13 http://d.hatena.ne.jp/mmmmmmmm/20060613 |
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最近テレビで、オーストラリアで子供がアルパカの子供とぶつかり合ってラグビーのタックルの稽古をしているとかいうどうでもいいニュース(?)が流れている が、その十数秒の映像の中に、この仔アルパカがはしゃいで駆けながらジャンプしたところ空中でバランスを崩して右斜め後方によろめいてしまう瞬間がある。 これは本当に魅力的な動きであって、ここが見たいがために、色々な局でこのニュースをやる度につい見てしまう。このアルパカは走る勢いを駆って跳ね上がってみたものの、その推力に対して、長い首が重みで横へ逸れていってしまい、それに全身が引きずられかかるのを胴のバネで強引にリカヴァリーするということ をしている。要するに発達過程の体型のアンバランスさということだけれども、それは同時に、まだ自分の体に慣れていない、使いこなせていない状態でもあっ て、別の言い方をすれば自分の体に対する確かなイメージを獲得できていないということだ。どこがどこまでどうなったら危ない、とかもよくわからないし、何か見通しをもって体を効果的に運用するということもできない。しかしそれにもかかわらず、全く動けない(動かない)でいるのではなくて、むしろその体の不明瞭さ、不安定さにギリギリまで接近して戯れている、あるいは、可能と不可能がせめぎ合うスリルを楽しんでいるように見える。これを見ていて、ちょうどこの仔アルパカの反転した鏡像のようなものとして、先日の室伏鴻を思い出した。 コートを着た冒頭部の後、銀塗りの全裸になった室伏が横臥の体勢でズリズリと移動するあの場面は、2004年 の『始原児』の一場面から発展したものではないかと推測するが、見ていて、何をしているのか最初なかなかわからなかった。「水銀」というタイトルが頭に浮 かんだ時にようやく、室伏は水銀のイメージに同化しようとしていて、それでここは(「舞踏」的にいって)「立てない」という意味で脚の機能を不能にしてい るのかなと、一応の解釈が成り立った。しかしそれではあまりにも説明的すぎないかと思いつつも、ともかく室伏が主に上半身と腕、腰を使って移動するのを見 ていると、室伏の体は、腰の辺りから分断され、下半身は「不能」という虚構を演じることを強制されている。この脚は、表立っては用いられないけれども、む しろ宙に浮かせるという種類の力は投入されていて、またそれがたまたま床に触れた部分の摩擦を利用するということも行われている。そうでなければ室伏は もっと勢いをつけて体を前に引っ張らなければならないはずだ。この場面の室伏の動きの、異様なまでのもどかしさは、不能性という虚構の演技と、前進すべし という現実の要請、そのどちらにも付けない宙吊り状態から来ている。そして刻々と向きを変えて色々なポジションで宙に浮かせられたりしている両脚が、徐々 に軽い痙攣を起こし始めた時、その非作為的な震えは、虚構と現実とに体を引き裂く作為の結果として生じていたものということになる。かくして虚構は現実に なった。より正確にいえば、虚構と現実が、別のある新しい現実を作り出した。 『始原児』の時にもちょうど同じことを考えたのだが、こうして人が踊ろうとする時には、「始原」へと、つまり秩序化される前の「器官なき身体」へと、「遡る」 というアナクロニスムが生じるのは避けようのないことなのだろう。仔アルパカのように、身体が所与になっていない状態の生き物は、ただ未知の体でスリルを 味わえばいい。しかし身体が所与になっている成人は、スリルを味わう以前に、体を未知の存在に変える必要がある。その意味で、室伏の「不能」の脚の痙攣 は、ダンスへのウォーミングアップの成功を確かに示していた。しかしそこから先の本番は、最終的にはダンスとしてではなく、イメージと価値の転倒(立てな かった脚が、「立つ」という機能を逸脱して上向きに高くそそり立つ)として処理されるに留まった。圧倒的な身体の力で、目はいつまでも釘付けにされてし まったが(おぞましいものを前に顔は引き攣りながら)、やはり脚が痙攣するに至ったからには、つまり体が未知のものと成り果てたからには、それと挑発的に 戯れるダンス=「魅力的な動き」を見せてほしかったというのが本音なのだ。もしこの歩けない脚で歩けば、それは仔アルパカのように無垢な、歩行ならざる歩行であり得たかも知れない、などと想像してしまう。 しかしともかく、このダンス的身体への遡行(アナクロニスム)が、虚構(イメージ)を介して達成されるというところには何か本質的な事柄が潜んでいるような気がする。 |