PROFILE


朝日新聞夕刊  1978年3月7日

パリで好評  暗黒舞踏派の公演

わが国の前衛舞踏の代表的存在である暗黒舞踏派に属する室伏 鴻、カルロッタ池田らが、このほど一ヶ月あまりのパリ公演をはじめておこない、評判を呼んだ。


土方巽を“教祖”とする暗黒舞踏派は、その門下に多くの人材と集団をかかえているが、このうちパリで公演をおこなったのは、舞踏集団「背火」を主宰する室伏 鴻と、女性ばかりの舞踏グループ「アリアドーネの会」のカルロッタ池田、ミゼール花岡の合わせて三人。

公演は一月二十七日からパリの劇場「ヌーボー・カレ」でおこなわれた。上演作品は「最期の楽園―彼方の門」。

このほど室伏鴻から朝日新聞社に寄せられた報告によると、劇場側の前宣伝は地味だったが、幕があいてみると、定員百五十人ほどの小劇場は、平日はともかく、金、土曜の週末は立ち見客や札止めが出るほどの盛況で、テレビやラジオが取材に訪れ、ルモンド紙とリベラシオン紙が大変好意的な批評を掲載した。特にリベラシオン紙は一ページのほとんど全部を使って、この舞台の写真と絶賛の舞台評をのせるという熱の入れようだった。

このため、 はじめ一ヶ月の公演予定が、劇場側の希望で追加公演もおこなわれた。有名な作家のマンディアルグも客席に姿を見せ、出演者たちを喜ばせたという。


演出家ピーター・ブルックが主宰するパリの国際演劇研究センター(CIBT)所属の俳優、笈田勝弘さんは、パリでこの舞台を見て、このほど一時帰国した が、「暗黒舞踏系の特異な踊りやテクニックが、ヨーロッパではまったくといっていいほど知られていないので、ヨーロッパの踊りとはおよそ違うあの舞台はパリの観客のど肝をぬいた」と語っている。

読売新聞夕刊   1978年3月13日

うれしい大モテ 上月晃と室伏鴻 /パリ便り二題



わが芸能界も国際化時代を迎えたのか、パリ便りが相次いだ。

第一便は、ゴンちゃんこと上月晃。二月から予定されていたヨーロッパ一周のワンマン・ショーが延期になり、四月からフォリー・ベルジェールに出演が決まっ たという。

彼女は昨年九月から二ヶ月間、同劇場に東洋人として初のゲスト出演している。この時、オーナーのニレーヌ・マルチニ女史に気に入られ、再度の出 演を要請されていた。今回は、フォーリーの主役、リリアン・モンテビッキ嬢をおろして、上月が主役のショーだという。(略)このほかにも、シャンゼリゼに 新しくオープンしたジャルダン劇場からも出演の誘いがあったとかで、まずはモテモテの便り。

第二便は、暗黒舞踏背火(せび)の室伏 鴻。彼は昨年 十二月、急に思いたってアリアドーネの会のカルロッタ池田、ミゼール花岡の三人でパリに武者修行に出かけた。当初、キャバレー回りをするつもりでいたそう だが、ひょんなことからヌーボー・カレ劇場への出演が決まった。題して「最期の楽園」。これが大いに受けた。

ル・モンド紙評―「真 に沸騰するシュールな雰囲気」。

リベラシオン紙評―「渋面、微笑、野卑なこっけい、そこではすべてが調和する」。
上 月の歌と踊り、室伏らの暗黒舞踏。パリは何でものみ込んでしまうらしい。
(写真は室伏鴻)

東京中日スポーツ新聞  1978年4月22日

アングラ舞踊、パリで絶賛 ― 室伏鴻ら“がい旋公演”



日本では異端児扱いされているアングラ舞踊が、フラン スへ渡って大成功。 パリっ子たちから「見たこともないスペクタクル・ダンス」と絶賛を浴びた。ルモンド紙などでも好評を得たこの舞踏家は、舞踏派背火 (せび)の室伏鴻と、女性舞踏アリアドーネの会のカルロッタ池田、ミゼール花岡の三人。この三人が、東京と名古屋で五月にそれぞれ“がい旋公演”を 行う。

室伏は五月三、四、五日の三日間、東京・虎ノ門の久保講堂で開かれる恩師・ 麿赤児が率いる大駱駝艦の天賦典式「風さかしま」へ出演。

一方、カルロッタ池田とミゼール花岡も約一年ぶりに五月十九、二十日の両日、 名古屋・大曽根の鈴蘭南座で「牝火山 vol.3 刺青」を開く。この三人、 昨年十一月、パリのキャバレー興行を目的に渡仏したが、 踊りが強烈すぎて酔客 向けではないと断られ、それではとゲーテ座で知られるヌーヴォー・カレ劇場へ紹介され公演。ことしの一月二十七日から二月二十五 日まで長期公演した。 あちらのタイトルで「最期の楽園」と名づけられたこの興行は、マンディアルグ、ジュネらの小説家も来場してたいへんな人気を博 したという。



 この成功を室伏は「日本では食わずぎらいな面がある が、フランス人は足しげく劇場へ足を運ぶ。いずれにしてもホットに迎えてくれたフランス人に感謝している」と素直に喜びを語っていた。

日本読書新聞  1978年5月29日
牝 火山・背火 パリ公演『最期の楽園―彼方の門』にふれて / 出口裕弘
−舞踏−
「暗黒舞踏」・沈黙の演劇

<雨 の降り続くパリ>


こ の冬、わたしはパリでたまたま舞踏派『背火』の公演を見ている。2月2日の夜、場所はパリ第3区のヌーヴォー・カレという劇場―正確にはそのなかの小劇場 である。パリは雨また雨の毎日で、当夜も陰気な雨だったが、客席はかなり賑わっていたと記憶する。室伏鴻さんの話では、実はその晩が最低の入りであり、満 員札止めが何回もあったそうだから、暗黒舞踏のパリ初公演は成功だったわけである。
 カルロッタ・池田、ミゼール・花岡の二人が踊っ た牛頭馬頭の 踊り、ラヴェルのボレロと三島由紀夫の市ヶ谷での絶叫を伴奏(!)にした室伏、池田、花岡三人の踊り、室伏鴻ひとりだけのミイラの踊り。全体に予想したの よりもはるかに激しく大ぶりの動きがあり、仕掛けも豊富で、ごく常識的な意味でも飽きる間がなかった。
 『背火』のグループとフラン ス側との仲介 役をつとめたマルティーヌ・マティアスという女史が、実にしっかりしていて、この人が中心になって作ったフランス語のパンフの出来がよく、観客はきわめて 質のいい情報を与えられた上で暗黒舞踏を見たのである。パンフは、戦後日本における「ダンス・デ・テネーブル」の発祥から説きおこし、反=日本舞踊、反= 西洋舞踊としての「アンチ・ダンス」の歴史をていねいに紹介していた。室伏鴻の「宣言」も仏訳さ
れ、一つ一つの場景について要を得た フランス語の解説がついている。こういうことは想像以上に大事なのであって、いいかげんな紹介をされれば、外地ではとりわけ、いいかげんな見方をされてし まう。その意味でも『背火』は、幸運だったと思う。
<演劇狂のフランス人>
  わたしは一年間、モンマルトルの丘の上の、眺めだけはやけにいいアパルトマンに住んでいたが、ここの家主が、かつて日本に五年もいたという男で、演劇狂 だった。日本の伝統演劇はもちろん、いわゆるアングラ劇もよく見ているのだけれども、どういうものか暗黒舞踏だけは見ずじまいだったらしい。この家主、わ たしが『背火』の公演を吹聴したときにはもう見に行っており、さっそく舞踊の話になった。はじめて見たせいもあろうが大変な熱狂ぶりである。 おかげでわたしは、この巨漢のフランス人から、日本暗黒舞踏について熱っぽい講義を聞かされる羽目になった。彼はその後も二度、公演を見に出かけ、ついに は写真を撮りまくってきたらしい。演劇となると目の色が変るが、ライフ・ワークは言語学なのだそうで、その肝心の言語学の業績についてはわたしは何も知らぬ。ただし、写真のほうは相当の腕前である。日本で撮った文楽の写真など、プロ並みと称してよかった。いい写真ができているだろうと思う。
<パ リジャンのプロぶり>
「リベラシオン」紙上に、この公演が一ページ大で紹介されていた。そのほか、好意的な批評があちこちに出たとおぼしいが、わたしはそういう情報集めにはひどく 不精だから、深くは知らない。もっぱら家主の昂奮ぶりを眺めつつ、暗黒舞踏パリ初公演はいい星を掴んだな、と考えた。それに、ヌーヴォー・カレという劇場のほうも、わたしの見たかぎり、よくやっていたようである。舞台装置そのものが三人の踊りにぴしゃりと合っていたし、照明も、音楽も、さすが玄人、と感嘆をそそるていのものだった。わたしはパリジャンたちには人並み以上に文句があるが、見世物一般にかかわる彼らのプロフェッショ ナルぶりは敬意を表せざるをえない。ひとつ、いま思い出した。家主とわたしは『背火』公演についてほぼ意見が一致したのだけれども、最後に彼は、あれは舞踏=ダンスと名づけるよりも、沈黙の演劇=テアトル・ミュエと呼ばれるべきだといってゆずらなかった。無言劇、黙劇、つまりパントマイムとはちがう、テア トル・ミュエだ、というのだが、どんなものであろうか。(筆者でぐち・ゆうこう氏=フランス文学者)