PROFILE
| 木村覚 Kimura Satoru |
| 日記から |
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□0306(Sat) 構成・演出室伏鴻、出演ダンス01『ジゼル(s)』を見た(@西荻窪WENZスタジオ)。 もう少し正確に書いておくと芸術監督竹屋啓子、振付室伏鴻、ダンス01。 「舞踏はハイブリッドである」、一年ほど前今はなきアスベスト館での『即興三夜』公演のあと、室伏はぼくに一言こう言って舞踏を定義してくれた。これは拙論 『土方舞踏論のアカルイミライ』を牽引する言葉になったわけだけれど、今晩の公演をもしこの言い方になぞらえるならば、「舞踏はハイブリッド化される」と言ってみたくなる。 舞踏の本質に「ハイブリッド(雑種)」という概念がある。このことは、様式化を目指そうとするいかなる舞踏にも到達出来ない(思い及ばない)、しかしぼくが 思う限り決して欠いてはならない要素である。複数であること、「2」を保ち続けること、ここに舞踏の論理があり倫理がある。とすれば、舞踏が自分自身を追 求していく過程のなかで、舞踏という形式そのものを複数化の危機のなかに放り投げてみること、それがいわば必然的な運命のようなものとして襲いかかってく ることがあるとしても、それは当然だろう。内容の複数性ではなく、その容器をさらに複数化の危機のなかに仕掛けてみること。 これは確かに危険な行為だと思う。舞踏の側からもモダンの側からもどちらの規準からも「不十分」と見なされて、一蹴されかねない。線は舞踏的であることを崩し、モダンの美を汚し、その半端なあたりを行ったり来たりする。ただしそれがまさにハイブリッドたる舞踏を形式ごとハイブリッド化せんとする企みだとすれ ば? 二 部構成。前半は迷彩服に目深にヘルメットをした7人の女たちが、ゆっくりとした動きを例えば動物のような四つんばいだったり、ごろごろ寝ころんだり。『地 獄の黙示録』の冒頭の音響が使われる。「かける」という話であれば、ここで兵士(男)は女に掛け合わされている。7人それぞれが描く線には、舞踏とモダン との間のレンジだけグラデーションが出来ていて、それは舞踏をどれだけこなしているのかとか、モダンがどこまで浸透しているのか、という規準ではかりたくなるところを慎重に裏切ってゆく。「裏切る」と言う感覚は、みていて苛つくと言うところに端的に体感される。「舞踏じゃない」とか、「モダンの美がない」 とかいう苛立ちは、むしろここにあるのが、モダン・ダンスを訓育されてきた身体にちいさなカプセル(「弱い毒」)を飲み込ませた結果起こる、暴発的な反応の結果なのだと分かってくると、むしろ楽しい失望に変わってくる。 後 半は、ジゼルたち(前半の最後に、「ジゼルはいた?」「いいえ」「いいえ」、「ええ」と会話があった)。最後の方にでてくる白いレース(それぞれのジゼル が頭上に掲げてあらわれた)は、『美貌の青空』で男たちが格闘した真鍮板のパロディ、変化形のように見えて、ここにも「2」が機能している。ならば、この 薄い皮膜、アンフラマンスの意味は?ゆっくりと倒れ込みながら、まるで女たちはさなぎのようにこの膜に包まれていったかに見えた。が、内と外を隔てる安定 機能のようでいて、あらかじめ腕が飛び出ているジゼルもいる。解釈不能の解決不能のわけはやはりそこにあるのが、複数性の事件であるから。複数であること は、単にコミュニケーションすることでも、コミュニケーションの不能を示すことでもだけでもなく、ただこのように見るものを混乱の渦中に漂わせることのな かにある、なんてこともありうるのだ。 というわけで、今晩のトライアルをぼくはかなり積極的に評価してみていたのでした。傑作とさえ思いました。同行人は、一つの人生を見たと思ったくらい長い時 間を過ごした気がした、と言い、自分が舞台を見てきたなかで一番よかったかも、と言ってました。多分その感想のなかにぼくが書いたようなことが顕在的にあ らわれているとは思えないけれど、きっと潜在的にはしかし何か大きな(ぼくが書いたことと何らか連関するだろう)出来事が起きていたに違いありません。 また、 こういった一過性の企画を批評の側が批評する言葉を持たないせいで、こういう企画を低く見積もるという傾向にちょっと疑問を持っていたのだけれど(ムギヨノ+砂連尾の時とか)、こういうことなのだ、といい解答をもらったような気持ちにもなったのでした。 こういう晩の食事は楽しい、高円寺の沖縄料理屋で舌鼓。
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