PROFILE


舞踏はハイブリッド
文=木村覚(『美術手帖』2005年5月号、80頁)

2000年の『Edge』に受けた衝撃は、銀色に光る背中だけではなかった。69年に土方巽に師事し、大駱駝艦の創設メンバーでありながら、80年代以降主に欧米で活動していたためにKo Murobushiを この日はじめて目撃することになった多くの日本人にとって、「エイリアン」と呼ばずにはいられないメタリックで強靱な肉体は、確かにそれだけでひとつのス ペクタクルだった。ただし本当の驚異は、次第に内へねじり力を溜め込む室伏に引き込まれ観客の肉体が呼吸ごと奪われるそのとき、「ぼやき」の如き言葉 (「フン、オカシイネ……」と言ったか)がポツリと漏れた、その瞬間にこそあった。一点へ収斂するかにみえた舞台と客席は瞬時にゆるみ拡散した。不意打ち に肉体ごと笑うしかない。言葉は異物として空間に漂い、それまで続いたテンションは殻だけになって放置された。緊張から弛緩へ単一性から複数性へと転化する実に豊かな空間がそこにあった。

  「舞踏はハイブリッド」−−以前室伏がぼくに呟いた一言が、彼の舞踏を一番言い当てている気がする。先のぼやきや真骨頂である背中からの不意の転倒は、そ れまでの流れを裏切り中断させさまざまなものの行き来が可能な「からの空間」を現出させる一種の凶器である(土方ならばその瞬間を「鎌鼬」と呼んだだろう か)。土方巽という豊かな錯綜体から何をどう取り出してくるか。舞踏なるものはその違いに応じて多様に生成しうるだろうが、室伏が摘出するのは最も苛烈な 自己批評あるいは自殺の側面であった。このことは注目すべきである。ここにこそ「踊りとは命がけで突っ立った死体である」という謎めいた言葉の真相が隠れ ているように思われるからだ。
 一方向に突進する力を挫くと、笑いとともにひとつのリズムが生まれる。ズレにともなうリズム。室伏が不断の自己批評をもって生み出した「からの空間」に充満するのは、土方舞踏の核心に迫るまったく特異なリズムであり踊りなのである。