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「土方巽・生誕80年の
ための・断片」
『corpus』
No.4 2008年3月21日発行
「や
りなおしッ」!!と突然怒声が聞こえた。客席は瞬時に緊迫した。ようやく阿呆王を担いだ行列はゆっくり舞台へ移動を始めた。それは土方巽の踊る肉体に出会
うよりもまえに、まず演技と非・演技の間に亀裂を走らせる彼の声との遭遇であった。客席に眼の凍結と声の消失を強いる声であった。それはこれから踊られる
見世物があらかじめ周到に準備されたものでありながら、そのうえで<一回かぎりの偶然>によって力を得るものなのだという強烈な宣誓のようであった。
§
タ
イトルすること、それが踊りである。
(無理難題、である。)
そして、なにものもタイトルしないこと、それが踊り
である。
(何かを踊るのではない。踊りに目的はない。踊りはむしろ目的やタイトルの抹消・剥奪であるから。)
そ
の狭間にあり、ありつづけること、それが踊りである。
(踊りが踊りを消失させるその途上が狭間である。それは境界の脆さである。)
謎、
――
それは墓である。
踊り、すでにそれは自らの墓の上に立っている。
踊
り、無名の碑銘である、そのような放浪であるだろう。
目はあり、芽を見つめる盲目である。
私
は私の盲目を目指す。
すべては、明るみのために。
踊り、為す無為。
踊
り、悪-遊戯。
踊り、行方不明。
踊り、逃亡する奴隷?
踊
り、縁と際。
アブナイ・・・・・っ
それはナイがしろの、
な
にものでもないこと。ないこと。
虚無への郷愁であるだろう。
§
踊
りは間のふるえである。踊ることは中止すること。踊りは踊りの中断、中絶によって立ち上がるなにものかだ。踊りのかたちが定まるその場所で踊りは同
時に崩れていなければならない。
それは切断であり、断ち切られたその断面、断層のそのふるえ、痙攣である。
しか
し、中止は中止することを中止しない、中絶が中絶することをやめないとすれば、中絶の極限にはなにがあるのか?なにもない。たえず<道の途中>があるだけ
だ。
踊りはふるえながら、その断面で、断面のそのふるえである覚醒であるだろう。覚醒するその途上の、踊りは、ひとつのめまいである
だろう。
ふるえながら覚めていなければならない。
※
紙面よりの一部抜粋です。無断転載不可。